第5回 研究会報告 【ハプニングとその周辺】

* 第5回現代音楽舞台研究会


・日時:平成26年9月29日(月)16:00~18:30
・場所:愛知県立芸術大学博士棟 演習室
・テーマ :「ハプニングとその周辺」

 司会:牛島
 書記:高山
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【当日の様子】


月曜日の開催ということで、参加者は余り多くないだろう・・・と予想しましたが、開始時間が近付くにつれて、用意した席は着々と埋まってゆき、嬉しい驚きを頂きました。すっかり常連となって下さった方々もあり、運営側としては心強く有り難い限りです。今回も久留智之先生、大塚直先生のご同席を得て、大変活発な議論が繰り広げられました。

【文献資料】


・『20世紀の美術』 監修/末永照和 美術出版社
・『実験音楽ーケージとその後』マイケル・ナイマン 水声社
・『フルクサスとは何か?―日常とアートを結びつけた人々』

                                             塩見 允枝子 フィルムアート社
・『パフォーマンス―未来派から現代まで』

                                             ローズリー・ゴールドバーグ リブロボート

【研究会の進行】


(1)ポイントの整理(資料確認)
(2)ジョージ・ブレクト《Drip Music》及び、

    ジョージ・マチューナス《Piano Piece》鑑賞
(3)ジョン・ケージ《Water Music》鑑賞
(4)フルクサス、ケージらの活動を俯瞰して意見交換

(1)ポイントの整理(資料確認)

■パフォーマンスアートとは


・時間の進行とともに生起する偶然的な要素や観客の反応をその都度受け入れて成り立

 つ。そこでは身体的な行為や肉体・物質の特性に重点がおかれていて、非言語的な性格

 が強く表れ、一義的な意味に還元できないメタファーの様相が顕著。そのような表現の

 仕方は、未來派をはじめダダ、ロシア構成主義、バウハウスによって20世紀の早い時期

 にすでに手がけられていた。しかしそれらの成果を継承しながら規正の美術の枠組みを

 根底から覆そうとする動きとしては、1959年アラン・カプローの《6つの部分から成

 る18のハプニング》の前後に起点が求められる。

■ハプニングについて


・最初の作品:1959年アラン・カプロー《6つの部分から成る18のハプニング》
 →ハプニングというと現在では即興的な要素が強い作品を想像することが多いが、カプ

  ロー自身はこの作品の実演においてしっかりリハーサルを行っており、即興だという

  意識はなかった。
・カプローは既成の芸術的価値観を思い起こさせることのないなるべく中性的な言葉とし

 て「ハプニング」を選び、それが今日の「パフォーマンス」という語の前身となった。

 (→独立した幾つもの部分からなるコラージュ的あるいはアッサンブラージュ的に合成

 された時空間を訪問者に体験させる計画で、部分間に一環した因果関係があるわけでは

 ない。)
・彼の試みの原点には「描く行為の現在」に留まろうとするアクション・ペインティング

 の日常的な生へのこだわりがある。
・ケージは急に起こる出来事を思わせる「ハプニング」ではなく、「イヴェント」という

 言葉を用いて、平凡な日常の奥に潜む沈黙への彼の関心を表そうとした。
・1960年代の「ハプニング」「イベント」における、美術の因習を打ち壊そうとする姿

 勢の根底には、日常的な生の根源への回帰という共通項が認められる。しかしそこには

 実存的な生の確かさによって近代の枠内に留まろうとする面と、偶然的な要素や観客の

 反応、一義的な意味に還元できない組み立てなどによって「確かな自己」という神話を

 も打ち壊そうとする面が、未分化のまま混在している。旧来の社会生活のあり方を変革

 したいという気持ちの表れでもあり、社会に対する集団的な運動となって広がることに

 もなる。

(2)ジョージ・ブレクト《Drip Music》及び、

   ジョージ・マチューナス《Piano Piece》鑑賞

・当時は「意味の無いことをする」ということが衝撃だったとのこと。
 →意味がなくちゃいけないと思っていたのが西洋的である。西洋の音楽は意味や論理が

  支配しているロゴスの世界であるが、本来音楽には意味以上のものが含まれている。

  それに漸く西洋は気がついたのではないか。
 →遅れているが故の粗さ。洗練されていない。例えば、水の落ちる様や響きに集中させ

  るものとして、東洋には「水琴窟」などの伝統がすでにある。それをコップに水を入

  れて「日常です」と見せるところから始めている。
・このような作品には、音に対する目線を拡げ、深める作用があるのではないか。西洋の

 ロゴス的文化が変化していく中で必然的な作品であったように思う。
・日常と芸術の狭間であると感じさせる面白さはある。
・このような活動は「これを作りましょう」と目指すところをあえて崩していく試みだっ

 たではないか。それを知的に楽しむ。視点の提案。
・これらの作品を再演する意味
 →この種の作品は時代性が大事。60年代にされたことを今また行っているとしたら興

  ざめではないか?
 →昔の作品を今行うということで、視点の変化はある。
 →そこに美のようなものを感じられる人がいたら、再演する意味はある(モーツァルト

  が再演を繰り返されているように)。

(3)ジョン・ケージ《Water Music》鑑賞


<※2種類の演奏動画を連続して鑑賞。最初はコンサート会場で演奏しているもの。

 次に駅の構内で演奏しているもの。>


・この作品はブラックマウンテンショー(ブラックマウンテンカレッジでケージがカニン

 グハムらと共に行ったもの。45分間、各々が全く違うことを続けた)で行われた作品

 の一部である。
・後の動画の演奏について、駅の中という環境で行うことによって、意味の無い行為にも

 意味があるように見える気がする。演奏される背景の力があるように感じる。
・この作品は、ラジオを流し続けるということで偶然性を狙っていると考えられるが、駅

 で行うことで偶然性に幅が出過ぎてしまっているのではないだろうか。どこまでが作品

 で、どこまでが偶然なのか分からなくなることで、作品のあり方が曖昧になっていると

 感じる。
・演奏家は元来作品を演出する立場であり、これらの作品でもそれは同じである。音だけ

 を操作すれば良い場合それほど違いは出ないが、この作品のように視覚・環境をも巻き

 込む作品であれば演出による演奏効果には大きな差が出る。
・ケージは演出が入ることを望んでいたのだろうか?音だけを聞くより視覚的要素も含め

 て見た方が面白いと感じる作品は多いが、ケージ自身はどれほど「見せる」ことを意図

 していたのだろうか?
 →音そのものを追求した人であり、あくまでも音に伴う視覚性なのではないか?
 →ピアノの音符のみを示した作品の演奏で、演奏家がある意味忠実に表情や強弱を付け

  ずに弾いたら、ケージが怒ったという話がある。ケージはわざと作品に“隙”を多く作

  り、そこに演出が入ることを狙ったのではないだろうか。
 →演奏家による演出は、「書いてないから適当に」というということでなく、作品を

  「より良くする」ためにあるべきものではないだろうか。
・ 責任を放棄しているということについて、同じ作曲家的立場からあえて言えば、まず

 「腹立たしい」と感じる。また、環境の音の扱い方についても東洋の文化におけるそ

 れと比較すると、まだまだ洗練されていないと思う。ただこの種の作品は聴く人に多く

 の気付きを与えたという点で素晴らしい。
・ケージ自身は作品を実現ための思考を突き詰めている。放棄ではない。
・柴田南雄はケージを西洋音楽に東洋音楽を持ち込んだ作曲家であり、それは「世界音

 楽」の時代に入っていくために大変重要なことであったと評価している。

(4)フルクサス、ケージらの活動を俯瞰して意見交換


・ この種の作品は、やってる方は楽しいけど見てる方はつまらない。人はやはり沢山練 習を重ねたものの方が価値を感じる傾向があるのでは。作品は環境の音に対して気付き を与えようとしているけど、そこに気付けるような人は各々の日常の中でとっくにその 美しさに気付いているのではないだろうか。これだけだと、作品の魅力として弱い。

・芸術のジャンルは、沢山の人が長い間そこで活動することによって洗練されていく。も っと多くの人がこのジャンルで創作を続けていけば、作品単体としてより魅力のあ る ものが生まれてくるのでは。

・ 現代演劇でも、作品として完成された「自分たちの世界と違うもの」を作るのではな

 く「作品と日常を混ぜた」ような作品作りは流行しており、自分達と芸術の世界を通

 底させようという動きは続いている。なお、演劇においても最初にこのようなことを

 行った時は勿論アングラであった。それが好きな人は好きだし、嫌いな人は嫌いであ

 る。しかし叩かれるだけのエネルギーがそこにあれば勝ちとも言える。今ではそのよう

 なやり方が浸透している。(例:シー・シー・ポップ、 PortB等)
・新しいものでも、それを作る人、批評する人、楽しむ人が増えてこればジャンルとして

 成立してくる。
・前の芸術を否定してでも新しいことをやろうという爆発力、意志、エネルギーが魅力。

 芸術にとってはそれがとても大事。
・「芸術」という概念に日本人は慣れていない。日本におけるそれはずっと「芸能」で

 あった。こういった活動は「芸術」として見れば大変価値があることである。色んなこ

 とがこの後起こってくるための起爆剤になっている。
 →そのような意味では、ここに「洗練」を求めてはいけない。
・実演において、文脈を間違えてはいけない。コンサートホールでこれらの作品を行うと

 すれば、それを鑑賞させるだけの価値があるのか?という疑問は当然生まれる。個々人

 で受けとめるものではないか。
・タブーを破ってやった、という原始的な喜びがあるのではないか。権威に対する反抗。
 →全てロゴスの世界で行われていること。例えば日本のように自然や祭りの中で音に触

  れ合って来た文化とは全く違う。西洋は非常に人工的なものとして音に触れ合ってき

  ている。
 →日本人はもっと創作していかねばならない。西洋のものを凄いと言っているだけでは

  いけない。我々はこの先にあることを既に知っているはず。ただ、芸術作品としてそ

  れを呈示することが苦手である。
・この時代の作品には「隙」が多過ぎるように感じる。時代が移り変わる途中、過渡期の

 ものだと感じる。よって曖昧な印象しか残らないのかもしれない。
・どの文脈で、どのように行うかによって全く違う効果になる。
・舞台を鑑賞するためのお約束をどのように成立させるかが重要でもある。

 

 (文責:高山)